kotetzmusumetofafataroのブログ

こつてつむすめとファーファ太郎による映画評論対決

ここが変だよララランド!

デイミアン・チャゼル監督『ラ・ラ・ランド』(2017)をようやっと観た。

全作の『セッション』(2015)は劇場で観たが、今回はBlu-ray視聴。

話題作、かつ賛否両論の作品だったので興味はあったのだがその反面この作品の触れ込みである「ミュージカル映画」には残念ながら興味が無かったのでなんとなく観ないままここまで来てしまった。

作品をざっとのあらすじで言うと、 

「女優を目指すミア(エマ・ストーン)とジャズピアニストを目指すセブ(ライアン・ゴズリング)の恋と夢をミュージカル仕立てで描いた映画。」

という事になるんだろうか。

話そのものはよくある物だが、2017年にミュージカル映画、しかも監督は『セッション』で一躍注目を集めたデイミアン・チャゼルという事で話題性高し。

観賞した感想を結論から言うと、

『結構楽しく観れたけど、いちいち気になる所が有りすぎて振り返るとほとんど何も覚えてない』

というような残念なものに。

良い所も好きなシーンも沢山あるんだけど、投稿タイトルがタイトルなんで、上記の『気になる所』だけを羅列。

エマ・ストーンの顔が凄過ぎる

いきなり身も蓋もない事を書くが、映画のヒロイン=作品中もっともスクリーンに写る1人として考えると、ちょっと顔にインパクトがありすぎて…。

美人は美人なのかもしれないけど、あまりの目の大きさ(浜崎あゆみとどちらが大きいのか)と、あえて野暮ったくさせてる化粧のせいで、なんか「女装したマイケル・ジャクソン」みたいで…。

たぶん観賞中、40回くらい「すげー顔だな!」って言った。

②序盤がPV風

色鮮やかなセット+エマ・ストーンを追い掛けるカメラワーク、全カット妙に決まったルックと、なんだかまるでテイラースイフトのPVみたい…。

1シーン1シーンのインパクトが強すぎて、いくら画が良くてもずっとテイラースイフトは辛い。

正直この序盤のミアパートでややげっそりしてしまって、最後まで観賞(完賞)出来るか自信が無くなる。

③ジャズピアニスト役のライアン・ゴズリングが全然ピアノ巧そうに見えない

これはもうタイトルの通り。

「手ガチガチじゃねーか!」と思ってしまう。

セッションの主人公にも抱いた感想。

④肝心のミュージカルパートに違和感

結果的にこの映画は「ミュージカル映画の皮を被ったジャズ映画」だったと思う。

というかミュージカル映画の皮も別に被らず、映画の売り方としてミュージカルパートを推してるだけで、全体は監督の趣味全開なジャズ映画。

それは全然問題ないんだけど、ミュージカルパートが少な過ぎて、『ミュージカル映画』という認識で観始めたにも関わらずその場面が来ると「うわなんか始まったっ!」と非常に強い違和感を覚えてしまう。

すなわち必然性を感じない。

J・K・シモンズがただのおじさん

『セッション』であれだけ強烈なフレッチャー先生を演じたシモンズが出てくると、それだけで身構えてしまうのに結果的には普通のおじさんだった。

これはただの言い掛かり。

⑥展開の唐突さ

目標はあるが冴えない日々→恋に落ちて→仕事の方も何となくちょっと進展があって→恋がギクシャクし始めて→当然仕事もギクシャクし始めて→でもなんとかなって→エンディング

という、非常によくある展開なんでとってもわかりやすくはあるんだけど、いちいち急展開でまとまりがない印象。

急展開というとトリッキーな流れを作ってるみたいだけど、単に進展を端折ってる印象でただただ唐突に事が運んでる。

映画を観る時に登場人物への感情移入なんてなくてもいいと思ってるけど、それにしてもあまりにも登場人物達に共感が出来ない。

恋愛も失恋も仕事の成功も、そこに至るまでを大幅にすっ飛ばしてるから「へぇー…そう…そっかー…」みたいな同僚との興味のない会話みたいな感想しか持てない。

⑦……

まだいくつかあった気がするが、思い出せず。

まぁそれだけ色々あるという事です。

と、ひとつひとつはよくある事かつ大した事じゃ無いんだけど、全編にわたって波状攻撃的にこれらが襲ってくるので、あまりにもノイズが多く映画が全然頭に入って来ない。

もちろん好きなシーンも沢山あって(セブのバンドのリーダーであるキースのジャズ観とか、現実になったかも知れない未来を想うゴズの表情とか、そもそも全編通して絶妙に変態クサいゴズの顔とか)、楽しく観たんだけど、全体の評価としてはやはり厳しくならざるを得ないかなと。

セッションも上記と同じような理由で全然ノレなかったんで、これがこの監督の作家性なのか、はたまたまだデビューしたてという事でこれから技術が向上していくのか、どちらになるか…。

あとこれは完全に余談だけど、ゴズって『ドライヴ』の時もヒロインなんか微妙じゃなかった?(へ)

事故物件レビュー byこうてつ

同じマンションに、売り出し中の空き部屋が二部屋あった。

一つは確かに破格ではあるが、あまりに向きが悪いので最初から特に選択肢にも入れず、もう一方の南向きの部屋のみを見に行くと不動産屋にも伝えてあった。そもそも築年数が古いので、そちらでも十分に安かった。

「こちらの部屋もどうですか?一応、鍵は持ってきているのですが…」「じゃあせっかくなので」と見るつもりのなかった部屋の内覧をアッサリ承諾すると、「ただ、ええと実は…こちらの部屋はいわゆるその…………事故物件でして」

まだ学生のような面影すら残る、うら若い不動産屋の営業マンは少し苦い笑い方をした。いつも(といっても会うのはこれで二度目だけれど)口の周りに剃刀負けの跡が複数ある、感じの良い青年。よく似た友達がいるので初めから親近感があった。

曰く、まず十年前に自殺が一件。その後購入した老夫婦が無理心中したのが今年の四月。老夫婦には他に身寄りもなく、現在の売主は弁護士ということになっていて、家は特に整理されることもなく、家具等が大部分残っており、それら残置物の処理も購入にあたっての条件になるとのこと。

三人が不幸の死を遂げている部屋。

「事故物件…」思わず反芻する。目の当たりにする機会は初めてだった。

「どうしますか?(それでも見ますか?)」という確認に対してすかさず「見ます。興味があります…と言えば不謹慎かもしれませんが」と思わず言ってしまった後に振り返り夫を見ると、同じく「見ます」と頷いたので意外といえば意外だったけれどやはり見てみることにした。

興味があるというのは、自分の感覚に対してだった。そんな場所で、私は何を感じ取るだろうか。

どうしたって不穏な緊張感と共に玄関の扉が開けられると、薄暗い部屋がこちらをじっと見つめ返していた。

一歩踏み入れて驚いたのは、予想を遥かに上回って何もかもそのままの状態らしいということだった。壁に掛かった水彩のようなピエロの絵、玄関の飾り棚に置かれた大きな瑪瑙のスライスやその他置物、それらの上に無造作に置かれた郵便物(名前が判明してしまった)…それらはあまりにも、“まだ”、それらの主人たちの家であることを物語っていた。主人たちが選び、その場所に配置した小物たちは、主人たちがこの世を去って半年以上経っても大してホコリを被ることもなく、その場に座ったまま客人を迎えているのだ。小さく「お邪魔します」と言うしかなかった。

部屋を進む毎にこの世を去った人々の気配は濃厚さを増した。

本当に何から何まで残置されており、全ての生活感がそっくりそのままの状態であるはずなのに、ピタリと時を止めていた。というよりも、“生”“活”感という言葉は妥当ではない。棚に置きっ放しのレトルトのパスタソースにも、洗面台に立ててある歯ブラシにも、シンクに並ぶフライパンにも、揃えて干してある靴下にも、普通生活感と呼べる全てのものに生気は無かった。「生活していた人が死んだ」という事実があまりにも適切だった。

物が生気を宿すのは、持ち主が生きているからなのだと知った。

お風呂場を覗くと介護用の介助用具があり、また、テーブルにはデイサービスからのプリントが放置されていたことから、老夫婦の無理心中の原因は明らかだった。

「○○ ○子様 腰が痛いようで、寝たきりの状態が続いています。薬を飲んで楽になればいいのですが」というような職員によるコメントが書いてあり、思わず手に取っていると、夫に制止された。

デイサービス利用者の奥様と玄関の郵便物の宛名のご主人とは苗字が違った。内縁だったのだろうか。夫が私に対して首を横に振ったのは、こうして私が事情に深入りしていくことが良くないということなのだろう。

老夫婦がゆっくり絶望しながら死に向かっていった部屋。

その以前にも誰かがどんな理由あってかやはり同じく絶望して死に向かっていった部屋。

人知の及ばぬ範囲であるとしても、繰り返される真理がその空間にはあるのだろう。

基本的に全ての物が老夫婦の所有していた物だと思われるが、玄関を入ってすぐ右の、物置のようにされているがらんとした洋室では、なんとなく「10年前の自殺」の気配がした。それ以上の情報は開示されてはいなかったけれど、男性がここで首を吊っていたような気がした。

「お邪魔しました」と外に出て、再びブレーカーが落とされ暗くなった廊下を振り返ると、入る時よりも痛ましくこちらを見つめ返しており、不動産屋さんは静かに扉を閉じた。

さて次に、もともと目当てだった方の部屋の内覧に移った。

5年前に全面リフォーム済みだという南向きのリビングダイニングは非常に明るく暖かく、キッチンは綺麗で、さっきまでの不穏な気持ちが晴れるようだった。

ただ、共用部廊下に面した北側の洋室二間があまりに暗かったことにやや疑問を感じた。現在の自宅でも、晴れ渡った日、北側の部屋はそれでももっと明るく、こんなに暗くはならない。…共用部廊下が暗いのだ。

一通り見て、それでも概ね満足してその部屋を出た。

共用部廊下に出るとすぐに、先ほどの「事故物件」の部屋が斜め下にあり、嫌でも目が合った。

…あの窓は、玄関を入ってすぐ右の、物置のような部屋だとわかる。

あの凄然とした家の内情を見知ってしまった今、既にその環境に辟易としてしまう。どちらにしろここの物件は無理だ。

シュタイナーは『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』において、植物の種子を観察してその秘めたる生命力を感じとり、また逆に枯れゆく草木を観察してものの朽ち衰え死にゆく様を感じとる練習法を説いていた。

その分類に当てはめればそもそもあの建物自体が、既に後者の気配に傾いているのだ。

ただでさえ幼い子どもがいて、生命をこれから燃やさなければならない者は、そういう場所に住むべきではない、多分。

GLAY『HEAVY GAUGE』byヘリオン

メンバーの心境を反映したGLAY史上随一のヘヴィなアルバム

1.HEAVY GAUGE
2.FATSOUNDS
3.SURVIVAL
4.ここではない、どこかへ
5.HAPPINESS
6.summer FM
7.LEVEL DEVIL
8.BE WITH YOU
9.Winter,again
10.Will Be King
11.生きがい
12.Savile Row~サヴィルロウ3番地~

1999年発売。1、3、4、5、8、9のシングル(当然全てヒット。3はビデオシングルとして売り上げ新記録、9はレコード大賞。時はまさにGLAY。)を有する。

人気絶頂、バンドも乗りに乗って、乗りすぎて解散も濃厚だった頃の作品故、はっきり言って捨て曲が全く無くとにかく最高なアルバム。

とはいえ、それまでの優等生的なロックサウンド(最初期のヴィジュアル系時代は除く)と比べて比較的ヘヴィ路線のアルバムであるため、人を選ぶ作品かもしれない。筆者は元々メタラー&ネクラなのでこの作風は大好物。

曲は1、9のヘヴィ曲、2、3、7のイケイケドンドンロック曲、4、6、11、12のそれまでのGLAYに近い爽やかで良い曲、残りの5、8、10がバラード風の曲と王道なバリエーション。

収録のシングル曲は全てシングルとアレンジ違いで、アルバムに合うようマイナーチェンジをしていると思われる。個人的には3のSURVIVAL以外のアレンジはいまひとつor意味が無いくらい微々たるアレンジに感じる。SURVIVALはシングル版よりもサウンドがすっきりし、よりバンドっぽい音になっているので好感度高し。

上記のようにGLAY売れまくり時代のアルバムなので、収録のシングルは当然良い(個人的には4の「ここではない、どこかへ」がベスト)。やはり特筆すべきはアルバム曲の素晴らしさである。

本当に全部良い。その中でも1、6(これは「ここではない、どこかへ」のシングルB面)、10、11、12はシングル曲を上回るクオリティで、特に最後の3曲が素晴らしい。
1で重苦しく救いのない幕開けを飾るこのアルバムも、この3曲により涅槃の境地に。心底「あぁ、GLAYが好きで良かった」と思える。

前作の『pure soul』と今作で単なるロックバンドに留まらない懐の深さを見せてくれたGLAY、音楽的にはこの辺りがピークだと思う。「売れ線のヴィジュアル系だろ」と聞かず嫌いしていた人にこそ是非聴いてもらいたい。

ここまで来て、上では「いまひとつ」と書いたシングル曲のアルバムアレンジだが、やっぱり「ここではない、どこかへ」「BE WITH YOU」「Winter,again」はシングル版の方が良いので、これらを聴きたい場合はベストかなんかでどうぞ。

Dream Theater『Systematic chaos』byヘリオン

ハイテクニックを惜しげも無く披露するロードランナー移籍1作目の9thアルバム

プログレメタルの代名詞ドリームシアターのスタジオアルバム9作目(2007年)。

1.In the presence of enemies pt.1
2.Forsaken
3.Constant motion
4.The dark eternal night
5.Repentance
6.Prophets of war
7.The ministry of lost souls
8.In the presence of enemies pt.2

曲芸的とも言える超絶技巧なテクニックに対して、2ndアルバム『Images & Words(1992年)』やその続編とも言える5th『Metropolis Pt.2:Scenes From A Memory(1999年) 』など一部を除いて歌メロが希薄な当バンドだが、その中でも極めてメロディ性が薄いと言える1作。

アルバムの目玉である2分割の「In the presence of enemies」以外は、リードトラック扱いの「Forsaken」「Constant motion」含め、2007年と言う時代から微妙に遅れた感のあるヘヴィ&グルーヴィなノリに支配され、退屈かつ印象に残らないヴォーカルラインの曲が続く。

しかし歌メロが弱い分、ジョン・ペトルーシのギターは全編通して印象的なフレーズが多く、メロディ不足を補って有り余る出来。

何よりも今作は中途半端なメロディに対して開き直ったように複雑な超絶テクが満載である。
耳が追いつかない程の膨大な音数をハイスピードで重ねるジョーダン・ルーデスの鍵盤とジョン・ペトルーシのギター、不必要な程に高速のユニゾンをキめまくるマイク・ポートノイのドラムとジョン・マイアングのベース。
「こんなのプログレじゃなくて単なるテクのひけらかしだ」なんて言われがちな彼らだが、完全に開き直っている。ここまで見せつけられると清々しさまで感じる上に、実際凄いので中途半端に良い曲をやられるより素直に楽しめる。

何より白眉なのはタイトルトラックと言える「In the presence of enemiese」。
「Pt.1」と「Pt.2」がそれぞれ9:00/16:38という彼らお得意の長尺曲。しかしその曲構成はさすが巧みであり、テクニックとメロディが高次元で融合している為まったくダレることなく没入させられる。
基本的に小曲の多い今作だが、本来ひとつの当曲をアルバムの最初と最後に2分割することによって、あたかもコンセプトアルバムであるかのような錯覚(あくまで錯覚である)を覚えさせ、アルバムを聴き終えた時には非常な満足感を感じる。
同じく大曲である「Shine on you crazy diamond」をアルバムの前後に分割配置したピンクフロイドの名作『Wish you were here(1975年)』と同じ構図である。

ちなみにアートワークは高速道路とか空薬莢の山とか髑髏とかの至る所を蟻さん達が歩いてるようなヤツ。
歌詞の世界観はざっくり言うと「色々人生迷ってるけど、最後はやっぱり信仰だよ、アーメン」みたいな感じ(歌詞に興味ない筆者)。

どうやらそのメロディの薄さ故にファンからは人気の無いアルバムらしいが(他も大差ないとおもうけど)、個人的にはドリームシアターの作品中最も良く聴くアルバムである。(もちろん、『I&W』と『Metropolis pt.2』は別格である。)

世間の評価に惑わされず是非一聴を。

アウトレイジ最終章(ネタバレ)byヘリオン

ひとりの男の人生を締めくくるに相応しい傑作映画


あらすじ

北野武監督・主演で裏社会に生きる男たちの抗争を壮絶に描いたバイオレンス映画「アウトレイジ」シリーズの最終作。

関東最大の暴力団組織・山王会と関西の雄・花菱会との抗争後、韓国に渡った大友は日本と韓国を牛耳るフィクサー、張会長のもとにいた。

花菱会幹部の花田は取引のためやって来た韓国でトラブルを起こして張会長の手下を殺してしまい、張グループと花菱は緊張状態へと突入する。

激怒した大友は日本に戻り、過去を清算する好機をうかがっていた。

その頃、花菱会ではトップの座を巡る幹部たちの暴走がはじまっていた。

ビートたけし西田敏行塩見三省、白竜ら前作からの続投組に加え、大森南朋ピエール瀧岸部一徳大杉漣原田泰造池内博之らが新たに参加。」(映画.com)


どうも、このブログに突如現れた第3の男、ヘリオンです。「アウトレイジ最終章」について書きました。

前作「アウトレイジビヨンド(2012)」から5年、待ちに待った待望の続編がようやく公開!期待に胸を膨らませ、万感の思いで観たこの作品についてまず言わなければならないことは、

「まごうことなき傑作である」ということ。

そして、

「観る人間を選ぶ」ということですね。

「とにかく最高です、全人類観て下さい」、と言いたいところなんですけど、やっぱりこれは人を選ぶ、というか何を求めているかによってはっきり評価が分かれると思います。

この「アウトレイジ最終章」は、はっきり言って地味です。暗いです。なので2010年第1作「アウトレイジ」のあのひたすらエンタメに徹した暴力絵巻を求める人には退屈に思えるんじゃないかと思うんですよね。

逆に初期の傑作「ソナチネ(1993)」や「3-4x10月(1990)」が好きな人はぴったりハマると思う。

今回はとにかく序盤からエンディングに至るまで、尋常じゃない悲壮感に包まれてます。

個人的には雰囲気として「仁義なき戦い 頂上作戦(1974)」に近いものを感じました。

前作「仁義なき戦い 代理戦争(1973)」で壮絶な舌戦(この点はアウトレイジビヨンドにも相関する)を繰り広げながら大抗争へなだれ込んだ山守組と明石組は、その後警察による頂上作戦(微罪や別件逮捕で幹部を逮捕しまくる)により組を仕切るべき上位幹部が不在に。その間指導者を失った部下達は歯止めのきかない猛烈な攻撃合戦を繰り広げるんですが、これがなんとも言えない悲壮感に溢れてるんです。

映像上は激しい撃ち合いや、ダイナマイトまで投げ合う派手な画なんですが、もう全員死ぬまで終わらないやけっぱちな抗争の絶望感と諦観がひしひしと感じられます。

今回の「アウトレイジ最終章」、主要な登場人物はみながみな、自分が騒動の主導権を握ってると思ってるんですが、全然違う。

抗争という大きな渦に飲み込まれて、ただその中で流れに身を任せているだけなんです。ひたすら死に向かって突き進んでいるだけなんです。

そんな中最も派手に立ち回って次々と花菱会構成員を襲っていく大友(ビートたけし)は「どうせ死ぬなら」感溢れる捨て身の行動を取っています。

たぶん大友の人生は1作目の「アウトレイジ」で、大友組という自分の家族を失った時点でもう終わってたんじゃないかと思うんですよね。終盤ですんなり逮捕を受け入れていたことからも想像出来る。

根っからの親分肌である大友はその後「アウトレイジビヨンド」で、抗争相手でもあった元村瀬組若頭・木村(中野英雄)と盃を交わし、再び家族を得、死んでいった部下達の弔い合戦を終えます。その後は張(チャン)会長(金田時男)を頼り韓国は済州島で静かな裏社会生活を過ごしていました。

そこでは最早彼のヤクザとしての人生は終わっており、家族を持つこともない惰性の日々を過ごしていたんではないかと思います。

今作で右腕として行動を共にしていた市川(大森南朋)とも盃は交わしていません。

そんな中勃発した花菱会と張グループの抗争、大友は危険の迫った張会長への義理のため制止を振り切り自ら渦の中に身を投じます。しかしこれは建前で、おそらくは宇多丸さんがタマフルTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」)で言っていたように自分の死に場所を求めての行動でしょう。

私刑とも言える徹底的な報復ですべてを破壊していくその姿は、しかしカタルシスを全く感じない。「今の俺にはこれしか出来ない」という諦めこそがその行動原理です。

清算を終えた大友は、観客の予想通り自ら命を絶つ。その死に必要以上の悲しみは感じない。彼の人生はとっくに終わっていたのだから。

これでこのお話はおしまい。暴力は暴力を産み、死は死を呼び寄せ、権力は相も変わらずのさばり通すという寂しいメッセージを残しつつ映画はエンドロールに。

物語終盤、抗争の発端中の発端である花菱会幹部・花田(ピエール瀧)への制裁で「花火」というワードがありましたが(花田は見事に花火を打ち上げたことでしょう、口の中で)、今作は「派手に見える線香花火」といった趣です。どれだけ大きく爆ぜているように見えても、結局は儚い線香花火なんですよ。

全体の暗めな雰囲気もあってか、シリーズ毎度のお楽しみであった「意趣意向を凝らした殺人描写」も今回は控えめ。

前出の花田のギャグボール爆弾と、「北陸代理戦争(1977)」パロディである花菱会会長・野村(大杉漣)のミッドナイト山中キャンプくらいですかね。個人的には今回の作風の中だとこれらも不要に感じました。

むしろシンプルなパーティー会場での自動小銃乱射や、作品中最も白眉といえるワンボックスカー銃撃戦の方こそ特筆すべきかと。

前者は大友の捨て身感をサービスショットで派手に描き、後者は暴力映画としての緊張感を最大級に演出。「ソナチネ」のエレベーター内銃撃戦に匹敵する緊張感でした。尹(ユン)会長の三段活用はお見事。

役者陣の演技も少し意趣が前2作と変わっていて、「アウトレイジビヨンド」で最も恐ろしい顔面の持ち主だった花菱会若頭補佐・中田(塩見三省)が、本人の病気の影響で痩せ細り、声にも覇気が全く感じられない。ビートたけしも喋りの勢いが減退し、体力の衰えを感じずにはいられない。

普通であればマイナス要素になってしまうこれらの点も、抗争に巻き込まれた個人の為す術の無さを強調させることに成功している。

監督すげーな!

3部作を締めくくるに相応しい素晴らしい作品。ひとりの男の鎮魂歌を是非見届けて欲しいです。

ヘリオン

イップ・マン 序章 byしんたそ

あらすじ

1930年代の中国広東省佛山。家族と共に平穏な日々を送る詠春拳の達人、イップ・マン。その実力と人格で人々の尊敬を集める一方、彼を倒して名を挙げようとする武術家たちも多く、心ならずも手合わせをしては、いずれも一ひねりにしてしまうのだった。ところが折しも日中戦争が勃発、佛山を占領した日本軍によって家屋を奪われ、窮乏を強いられる。やがて空手の名手でもある日本軍将校・三浦がイップ・マンの実力に目を付け、日本兵たちに中国武術を教えるよう迫るのだが…。 www.allcinema.netから引用

 

この映画は戦前、戦中の二つのパートから成り立っている。

戦前のパートでは各道場の師範が道場破りに打ち負かされた後にイップマンが道場破りを赤子の手を捻るが如く返り討ちにし、住民から尊敬を持って慕われるシーンが、イップマン=「佛山の象徴」として強く描かれている。(奥さんからは修行ばかりでなく息子にも構ってやれと叱られるが表情では反省の色があまり見られないダメ親父っぷりを演じるドニーイェンにも注目してほしい。)

 

戦中パートへの移行についてだが、テロップだけで済まされている。

これについてだが、物語の展開をスピーディかつ中だるみを防止する為に余分な説明は省き、文字に起こして省略したのだろうと解釈した。日本軍が佛山に侵略するプロセスは重要ではないのだ。この効果により観客を突然に戦中の悲惨な状況に突き落とすことになり、ストーリー展開のテンションの引き締めにつながったと評価したい。

 

戦中パートで日本兵の三浦と佐藤が登場する。三浦は「空手」、佐藤は「銃」で佛山を征服しようと企む。なぜ「空手」が出てくるのか?イップマンもとい佛山の住人の根元には詠春拳があると考える。「銃」で物理的に征服するのはもちろんだが、人の一番奪われたくないもの、アイデンティティーも空手によって詠春拳を打ち負かし心理的に征服しようとするのだ。物語終盤でイップマンは三浦との直接対決を制したが佐藤の放った凶弾により倒れる。(死んでないよ。)

 

「銃」によって倒され征服されたが、アイデンティティーを奪うことはさせない。

中国の歴史は侵略と隣り合わせであった。欧米諸国から幾度となく植民地にされ、国土も人民も財も何度も奪われた。その度に耐え忍び再生する日を待ち続けただろう。現在も中国文化が欧米諸国によって支配されず残り続けているのは中国の人民に自文化の誇りがあるからであろう。この「イップ・マン 序章」は2008年に中国の正月映画として公開され、大ヒットを記録した。日中戦争における自民族賛賞の内容が現代でも大衆に受け入れられるというのは中国人の民族意識の高さが窺える。どこかの少年漫画の版権を使用した毒にも薬にもならない映画が蔓延している日本からしたら考えられない。

 

私達は民族意識を持って生きているだろうか?

戦時中は国民全体が「日本人」としての誇りを持ち、米国に領土を侵されまいと一丸となって大戦に臨んでいた。しかし、現在の日本は物資的に豊かであり戦争のない平和な国である。だからこそ「日本人」であることよりも「各個人のアイデンティティー」を尊重している人が大半であろう。

 

この映画を鑑賞した機に「自分が何者であるか」を考える前に「日本人としての自分」を見つめ直してみると良いかもしれない。                しんたそ

 

麻雀放浪記 byしんたそ

敗者は身ぐるみを剥がされドブに打ち捨てられる。

 

賭博に関してはどのようなイメージを持っているだろうか?

昨今の日本においてはパチンコの遊技人口が減り、野球賭博の蔓延などでとてもいいイメージが無いように思われる賭博であるが、かつて戦後の日本においてそれに命とプライドを賭けた玄人(ばいにん)と呼ばれる人々がいた。

 

主人公の坊や哲は戦後の日本で職を転々としながらふとしたきっかけで賭博の世界へ足を踏み入れる。クラブのママと共謀し駐在米兵相手の賭博で生計を立てる過程で坊や哲はママに片想いをするが、ママは人と同じ生き方の出来ない哲を残し行方をくらましてしまう。絶望した坊や哲の前にドサ健というチンピラが家の権利書や恋人まで売り飛ばしても賭博をし続ける人物が登場し、賭博の厳しさを知りながらも成長する。

 

色々トチ狂った人々の話に聞こえるが私の経験談を踏まえて解説しようと思う。(以降は賭博ではなくギャンブルと表記します。念のため。)

 

私がギャンブルに出会ったのは大学生の頃、授業に空き時間が出来て足の向くままにパチンコ屋に入ったのがきっかけであった。その日は5千円程儲けが出てホクホク顔で帰路に着いた。次の日から講義の空き時間を見つけてはパチンコ屋に入れ浸ったが5千円の勝ち分はおろか、当月バイトの給料すら全て無くなってしまった。

しかし、無くなったお金についてはどうしようもできないのだ。店に返してくれといっても、友人に愚痴を言っても戻ってこない。自分がギャンブルで失った金など他人は興味ないのだ。自分が撒いた種とはいえ無一文になった私は世界に一人取り残された気分になった。そこで気がついた。ギャンブルの本質とは奪い合いであると。

 

麻雀放浪記の本質もいわば奪い合いである。玄人にとって敗北は死を意味する。戦後の日本において持たざる者を保護するものなど何も無い。だから玄人は仲間と協力して相手を出し抜きイカサマで自分に有利な状況を作り上げ、持つ者(物語上では米兵)から奪うのだ。もちろんうまく勝ち続ける訳もない。無一文で負けたらリンチにあう。生死と隣り合わせだ。賭けるものがなくなったらなんでも売り飛ばす。住処だろうか恋人だろうが関係ない。常軌を逸しているその奪い合いの中で彼らは自分の存在意義やこの一瞬、生きていることの実感を強く認識するのだ。仮にこれを読んでいる君が自分の持つ物全てと命を賭けた勝負をしたとしよう。そのひと時は永遠に忘れられない記憶になる。

 

この物語に登場する玄人は常人では理解しがたい青春を送っているが、生き死にを賭けた勝負で生きていく彼らと普段何気なく生活している私達の違いなんてないのだ。

私達は普段から無意識に奪われないために何かを奪ったからここに立っている。

生きていく本質も奪い、奪われることだ。

明日、生きていくために賽の目を振ろう。

だけど俺はその賽の目を振出せずにいる。 しんたそ

『エル ELLE』(2016)byこうてつ

 
エル ELLE』 (2016)

あらすじ
新鋭ゲーム会社の社長を務めるミシェルは、一人暮らしの瀟洒な自宅で覆面の男に襲われる。その後も、送り主不明の嫌がらせのメールが届き、誰かが留守中に侵入した形跡が残される。自分の生活リズムを把握しているかのような犯行に、周囲を怪しむミシェル。父親にまつわる過去の衝撃的な事件から、警察に関わりたくない彼女は、自ら犯人を探し始める。だが、次第に明かされていくのは、事件の真相よりも恐ろしいミシェルの本性だった──。(公式サイトhttp://gaga.ne.jp/elle/より)
 
 
 考察(ネタバレ有り)
 そもそも『エル ELLE』は、「レイプ犯を探し出して復讐する」話ではない。
これは「異常な原体験が呼び起こす異常な体験の連鎖、その克服と脱却」の物語である。
 
レイプをされ、嫌がらせをされても毅然として冷静沈着であり、心乱された所作の一切を見せない主人公ミシェルのことを、単に「強く」「格好いい」女性として捉えるのは非常に安直であると思う。
異常な原体験を持つ人間は、異常に対する異常な抗体が出来上がってしまっている、というだけなのではないか。
異常値が原体験のそれを超えない限り、何事も、(それが唐突な恐ろしいレイプであったとしても、)大きく動揺する出来事ではないのかもしれない。
劇中ではミシェルの抱えているいくつかの諸問題(レイプとそれにまつわるストーキング行為、母の奔放な性生活、ダメ息子と反りの合わない嫁、親友の夫との不倫、元旦那に出来た若い恋人、父の事件…)が物語にレイヤーを重ね一見複雑にしているが、しかし、彼女の心情に本当に根差している問題とは、父の事件とそれにまつわる自らの記録と記憶“だけ”のように感じた。…この問題に触れる時だけ、至極冷静なミシェルが露骨に嫌悪感を表しながら声を荒げたり、はたまた酔いに任せて饒舌に吐き出したり、クソ喰らえと呪文のように繰り返して動揺する心を抑えつけている様が見て取れる。
 
異常な原体験…父の起こした大量虐殺事件と少女だった自らの写ったセンセーショナルな記事、マスコミにより国民に植えつけられた憎悪と好奇に晒された生活は、どれだけ彼女の素直な感受性と真っ当な道徳性の成長を阻害してきたことだろうか。
飲食店では、事件を知り嫌忌する見知らぬ女性から食事の残飯をぶちまけられるが、ミシェルはさほど動じない。通常の倫理観を押し殺して生きてきた彼女は、必然的に周囲からの性的・暴力的な衝動も受け入れることが自然となっている。
社内で、自社製品の性的シーンにミシェルの顔を貼り付けたコラージュ動画が出回った事件などはまさに、性的かつ暴力的な嫌がらせである。(そもそも、社内の若い男性社員達の中で二分する「嫌悪」と「羨望」の二極化したミシェルへの評価もまた象徴的である。)また、元夫との離婚事由も元夫による暴行のせいであったと明かされた。そして、性的かつ暴力的な事件の最たるものがレイプであった。
しかし彼女はもうそういった目線もとっくに慣れっこなのだ。だから動揺しない。初っ端のレイプシーンも、BGMで静かなクラシックが鳴り続けており、カメラも定点的に動かないことで、(カメラは飼い主が襲われているところをじっと見つめる飼い猫の目線だったと思う)ショッキング性や暴力性をかなり緩和した(抑圧した)映し方をしている。それは、彼女の心的に既に完成されている、ショッキングな出来事に対する抑制的メカニズムともリンクする。
そのように、彼女は異常性に対する異常なまでの受容力がある上で、また更に、自身の性的衝動こそ至妙に誘惑に乗じて異性を誘うことが出来るタフさをも兼ね備えており、それがこのヒロインをただの性的弱者には絶対にたらしめず、一癖も二癖もある彼女の艶めかしい魅力として貢献している。
実際、「家の周りに不審者がいた」と通報し、家の中の見回りに来てくれた隣人パトリックをそっと視線で誘う彼女は非常に巧妙な誘惑者であることがわかる。ミシェルが主催し、一堂に会するクリスマスパーティのテーブルの下では、敬虔なクリスチャンである妻の隣に座るパトリックの股間に素足を伸ばし弄っている。…恐らく親友アンナの夫を(はっきりと口に出さずとも、視線や態度で)不倫へと誘ったのもミシェルからだったのではないかと推測できる。
一方で、これらの事実…親友の夫と性的な関係を持っていること、それに隣人夫婦の夫・パトリックに性的興奮を覚え、誘惑している事から、やはり本人自身の倫理観が一般常識のそれとは乖離している、つまり異常であることがわかる。
 
そもそも、隣人パトリックへの誘惑もこの物語が始まる前からしているように思える。パトリックが植木を抱えている初登場の際もしばらく目で追っていたし、ミシェルは明らかに以前から好意を寄せている。
パトリックによるレイプ犯行は、最初から、そういったミシェルによる巧妙な誘惑への、パトリックの異常性癖を通したアンサーであったのだと思う。
そして、とうとうレイプ犯の覆面を剥ぎ取った際に、ミシェルは自分の誘惑が成功していたこと、同時に、思いがけずこの犯行自体、自分が誘致していたということをも知ってしまったのだ。
(レイプされる女は誘ってる、と言っているのでは全くない。イザベル・ユペールがインタビューで言うように、ミシェル=彼女elleのケースの話である)
 
ミシェルはその後、犯人が分からなかった今までとは完全に形勢を逆転し、優位を取って、その後のレイププレイを続行する。被害者でありながら、否、被害者であるからこそ、状況をコントロールしているのは彼女なのだ。
しかしこの状況こそ彼女にとっても異常の極みであった。
 
母の死、そして彼女の心の闇の元凶であり、異常性の原体験そのものであった父の死を機に事態は転じていく。彼女は異常性からの真の脱却を望み始めるのだ。
「もう嘘をつきたくない」と親友の夫との不倫を親友にカミングアウトし、パトリックにも「警察に申し出る」ことを告げる。
 
逆上し再び覆面を着けて襲ってきたパトリックを、居合わせた息子が撲殺した際、震える息子を抱きしめながら、ミシェルは「もう終わったのよ」と言い聞かせる。
終わったのは、レイプ犯とそれを受け入れてしまう自らの異常な関係性だけではない。
人生に影を落とし続けた父の事件のトラウマ、そしてそれに起因し、倫理的に周囲を裏切る自らの異常性、そういった悪癖諸共、終わらせたのだ。
 
幸い、不倫をカミングアウトしても尚、彼女と共にいて笑ってくれるのは、親友アンナであった。何故そうなったのか明らかにはされないが、あれだけ険悪であった息子夫婦も、急に仲睦まじく(激しく取り合っていた子どもの存在を車内に忘れるほどに!)彼女の元を訪ねてくる。
ミシェル自身、冒頭から続く抑圧的な表情が、かなり柔和になっている。環境や周囲が自分自身の鏡だとすると、自らに穏健な変化があれば、周囲も同じく変わるということかもしれない。「風向きが変わった」、と捉えても良いのだろう。
全てを克服したミシェルには、これから、希望ある明るい生活が待っているようだ。
 
 
 
 

こうてつ