kotetzmusumetofafataroのブログ

こつてつむすめとファーファ太郎による映画評論対決

麻雀放浪記 byしんたそ

敗者は身ぐるみを剥がされドブに打ち捨てられる。

 

賭博に関してはどのようなイメージを持っているだろうか?

昨今の日本においてはパチンコの遊技人口が減り、野球賭博の蔓延などでとてもいいイメージが無いように思われる賭博であるが、かつて戦後の日本においてそれに命とプライドを賭けた玄人(ばいにん)と呼ばれる人々がいた。

 

主人公の坊や哲は戦後の日本で職を転々としながらふとしたきっかけで賭博の世界へ足を踏み入れる。クラブのママと共謀し駐在米兵相手の賭博で生計を立てる過程で坊や哲はママに片想いをするが、ママは人と同じ生き方の出来ない哲を残し行方をくらましてしまう。絶望した坊や哲の前にドサ健というチンピラが家の権利書や恋人まで売り飛ばしても賭博をし続ける人物が登場し、賭博の厳しさを知りながらも成長する。

 

色々トチ狂った人々の話に聞こえるが私の経験談を踏まえて解説しようと思う。(以降は賭博ではなくギャンブルと表記します。念のため。)

 

私がギャンブルに出会ったのは大学生の頃、授業に空き時間が出来て足の向くままにパチンコ屋に入ったのがきっかけであった。その日は5千円程儲けが出てホクホク顔で帰路に着いた。次の日から講義の空き時間を見つけてはパチンコ屋に入れ浸ったが5千円の勝ち分はおろか、当月バイトの給料すら全て無くなってしまった。

しかし、無くなったお金についてはどうしようもできないのだ。店に返してくれといっても、友人に愚痴を言っても戻ってこない。自分がギャンブルで失った金など他人は興味ないのだ。自分が撒いた種とはいえ無一文になった私は世界に一人取り残された気分になった。そこで気がついた。ギャンブルの本質とは奪い合いであると。

 

麻雀放浪記の本質もいわば奪い合いである。玄人にとって敗北は死を意味する。戦後の日本において持たざる者を保護するものなど何も無い。だから玄人は仲間と協力して相手を出し抜きイカサマで自分に有利な状況を作り上げ、持つ者(物語上では米兵)から奪うのだ。もちろんうまく勝ち続ける訳もない。無一文で負けたらリンチにあう。生死と隣り合わせだ。賭けるものがなくなったらなんでも売り飛ばす。住処だろうか恋人だろうが関係ない。常軌を逸しているその奪い合いの中で彼らは自分の存在意義やこの一瞬、生きていることの実感を強く認識するのだ。仮にこれを読んでいる君が自分の持つ物全てと命を賭けた勝負をしたとしよう。そのひと時は永遠に忘れられない記憶になる。

 

この物語に登場する玄人は常人では理解しがたい青春を送っているが、生き死にを賭けた勝負で生きていく彼らと普段何気なく生活している私達の違いなんてないのだ。

私達は普段から無意識に奪われないために何かを奪ったからここに立っている。

生きていく本質も奪い、奪われることだ。

明日、生きていくために賽の目を振ろう。

だけど俺はその賽の目を振出せずにいる。 しんたそ