kotetzmusumetofafataroのブログ

こつてつむすめとファーファ太郎による映画評論対決

事故物件レビュー byこうてつ

同じマンションに、売り出し中の空き部屋が二部屋あった。

一つは確かに破格ではあるが、あまりに向きが悪いので最初から特に選択肢にも入れず、もう一方の南向きの部屋のみを見に行くと不動産屋にも伝えてあった。そもそも築年数が古いので、そちらでも十分に安かった。

「こちらの部屋もどうですか?一応、鍵は持ってきているのですが…」「じゃあせっかくなので」と見るつもりのなかった部屋の内覧をアッサリ承諾すると、「ただ、ええと実は…こちらの部屋はいわゆるその…………事故物件でして」

まだ学生のような面影すら残る、うら若い不動産屋の営業マンは少し苦い笑い方をした。いつも(といっても会うのはこれで二度目だけれど)口の周りに剃刀負けの跡が複数ある、感じの良い青年。よく似た友達がいるので初めから親近感があった。

曰く、まず十年前に自殺が一件。その後購入した老夫婦が無理心中したのが今年の四月。老夫婦には他に身寄りもなく、現在の売主は弁護士ということになっていて、家は特に整理されることもなく、家具等が大部分残っており、それら残置物の処理も購入にあたっての条件になるとのこと。

三人が不幸の死を遂げている部屋。

「事故物件…」思わず反芻する。目の当たりにする機会は初めてだった。

「どうしますか?(それでも見ますか?)」という確認に対してすかさず「見ます。興味があります…と言えば不謹慎かもしれませんが」と思わず言ってしまった後に振り返り夫を見ると、同じく「見ます」と頷いたので意外といえば意外だったけれどやはり見てみることにした。

興味があるというのは、自分の感覚に対してだった。そんな場所で、私は何を感じ取るだろうか。

どうしたって不穏な緊張感と共に玄関の扉が開けられると、薄暗い部屋がこちらをじっと見つめ返していた。

一歩踏み入れて驚いたのは、予想を遥かに上回って何もかもそのままの状態らしいということだった。壁に掛かった水彩のようなピエロの絵、玄関の飾り棚に置かれた大きな瑪瑙のスライスやその他置物、それらの上に無造作に置かれた郵便物(名前が判明してしまった)…それらはあまりにも、“まだ”、それらの主人たちの家であることを物語っていた。主人たちが選び、その場所に配置した小物たちは、主人たちがこの世を去って半年以上経っても大してホコリを被ることもなく、その場に座ったまま客人を迎えているのだ。小さく「お邪魔します」と言うしかなかった。

部屋を進む毎にこの世を去った人々の気配は濃厚さを増した。

本当に何から何まで残置されており、全ての生活感がそっくりそのままの状態であるはずなのに、ピタリと時を止めていた。というよりも、“生”“活”感という言葉は妥当ではない。棚に置きっ放しのレトルトのパスタソースにも、洗面台に立ててある歯ブラシにも、シンクに並ぶフライパンにも、揃えて干してある靴下にも、普通生活感と呼べる全てのものに生気は無かった。「生活していた人が死んだ」という事実があまりにも適切だった。

物が生気を宿すのは、持ち主が生きているからなのだと知った。

お風呂場を覗くと介護用の介助用具があり、また、テーブルにはデイサービスからのプリントが放置されていたことから、老夫婦の無理心中の原因は明らかだった。

「○○ ○子様 腰が痛いようで、寝たきりの状態が続いています。薬を飲んで楽になればいいのですが」というような職員によるコメントが書いてあり、思わず手に取っていると、夫に制止された。

デイサービス利用者の奥様と玄関の郵便物の宛名のご主人とは苗字が違った。内縁だったのだろうか。夫が私に対して首を横に振ったのは、こうして私が事情に深入りしていくことが良くないということなのだろう。

老夫婦がゆっくり絶望しながら死に向かっていった部屋。

その以前にも誰かがどんな理由あってかやはり同じく絶望して死に向かっていった部屋。

人知の及ばぬ範囲であるとしても、繰り返される真理がその空間にはあるのだろう。

基本的に全ての物が老夫婦の所有していた物だと思われるが、玄関を入ってすぐ右の、物置のようにされているがらんとした洋室では、なんとなく「10年前の自殺」の気配がした。それ以上の情報は開示されてはいなかったけれど、男性がここで首を吊っていたような気がした。

「お邪魔しました」と外に出て、再びブレーカーが落とされ暗くなった廊下を振り返ると、入る時よりも痛ましくこちらを見つめ返しており、不動産屋さんは静かに扉を閉じた。

さて次に、もともと目当てだった方の部屋の内覧に移った。

5年前に全面リフォーム済みだという南向きのリビングダイニングは非常に明るく暖かく、キッチンは綺麗で、さっきまでの不穏な気持ちが晴れるようだった。

ただ、共用部廊下に面した北側の洋室二間があまりに暗かったことにやや疑問を感じた。現在の自宅でも、晴れ渡った日、北側の部屋はそれでももっと明るく、こんなに暗くはならない。…共用部廊下が暗いのだ。

一通り見て、それでも概ね満足してその部屋を出た。

共用部廊下に出るとすぐに、先ほどの「事故物件」の部屋が斜め下にあり、嫌でも目が合った。

…あの窓は、玄関を入ってすぐ右の、物置のような部屋だとわかる。

あの凄然とした家の内情を見知ってしまった今、既にその環境に辟易としてしまう。どちらにしろここの物件は無理だ。

シュタイナーは『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』において、植物の種子を観察してその秘めたる生命力を感じとり、また逆に枯れゆく草木を観察してものの朽ち衰え死にゆく様を感じとる練習法を説いていた。

その分類に当てはめればそもそもあの建物自体が、既に後者の気配に傾いているのだ。

ただでさえ幼い子どもがいて、生命をこれから燃やさなければならない者は、そういう場所に住むべきではない、多分。